闇夜に啼(く、あの酉(の様に。
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夜が明け鶫は学校へ登校したが、薫子は彼女の言葉通りそこには居なかった。しかし何事もなかったように1日は坦々と過ぎてゆく。
ただ、そこに薫子が居ないというだけで。
1人は馴れていた。
否、馴れていた筈だったのだが。
薫子のいない学校で1日を過ごし、誰も居ない四角い部屋へ戻って、鶫は深く深くため息を零した。
馴れていた筈のしん、とした空気が、何故か重く息苦しいものに感じられる。
寂しい……自らのその感情に苦笑せざるをえない。
あの時の――最後に逢った時の薫子は明らかに嘘を吐いていた。
薫子が今でも父のことを愛していることは間違いないだろう。はじめのうちは薫子のいつになく緊迫した雰囲気に圧倒されていた鶫であったが、帰りぎわに香ったコントラディクション――矛盾の香りに正気に戻ったのだ。冷静に考えてみれば、あの日の薫子の言動にはあまりにも矛盾が多すぎる。
だとしたら、何故彼女は嘘をついたのであろうか。
そんなことをしても何の利益もないだろうに。
考える。
一体彼女はあんな演技までして自分に何を伝えようとしたのだろうか。
多くの時間が過ぎた。いや、実際にはそれほど時は経ってはいなかったのかもしれない。しかし鶫には恐ろしいほどに……それこそ恒久の時を経たかのように感じた。
そして、出た答えはひとつ。
それは、あの入学して間もない日の午後、薫子に伝えようとしてしかし自尊心の高さ故に伝えられなかった事そのものだった。
認めたくなかった。
それを認めてしまったら、自分が今までしてきたことは何の意味をも持たなくなってしまうではないか。
しかし、認めざるをえなかった。
そして誰に言うでもなく呟いた。おそらく鶫にとって最大の屈辱でもある本心の吐露を。
「薫子さん、僕はこんなになってまでもまだ父が好きなんだ。信じたいって想いが心のどこかに……でも確かにあるんだ」
そう。
鶫は父が好きだった。
鶫が幼い頃から忙しいひとで、約束は何度も何度も破られた。それは時にキャッチボールの約束であったり、父親参観の見学であったり……遊園地に行く約束であったりした。実の母を知らず、年ごとに変わる継母に育てられた鶫。それだのにちっとも自分を気にもしてくれない父に寂しい思いをすることは多々あった。鶫にとって信じられる肉親は最早父だけであったというのに。しかし、約束は悉く破られた。幼い鶫には父の裏切りは耐え難いものであることは必至である。それでも、何度裏切られても、鶫の中に父を信じたい気持ちがあるのは本当だった。
残念ながら、血の繋がりなんてものはそれだけでは何も生み出さない。否、生み出すことはできない。世の中にはそんなものよりもっと強い絆があるのだから実際に自分の家のことは考慮に入れないにしても、血の繋がりというものが如何に曖昧で頼りないもおんであるかは知っている。自分の子供だから、自分の親だから、そんな理屈は残念ながらまかり通らない現状がある。今日び、親を殺す子供も居れば、子供を殺す親も居る。
何故か。それは、親子と言えど、所詮は他人に過ぎないからだ。子供は必ずしも親のものではないし、個人としての意思がそこにある。生きてゆく限り「他人」を完全に理解することはどう考えても不可能なのだ。親子と言えど例外はない。親という名の「他人」、子という名の「他人」。そんな中、全てを理解されたいと望むのは、エゴでしかない。だから、「血は水よりも濃い」だなんて言葉は大嘘だと鶫は思った。
「親子だから」だとか「血が繋がっているから」なんて言葉は偽善者の言う綺麗事だとしか思えない。
しかし、鶫は血の繋がりがあったから父を信じたかったわけでは決してなかった。
鶫は確かに父を好きだった。
いつからだろう、期待することさえ億劫になってしまったけれど。これ以上裏切られるのが怖くて父を好きだという本心さえ隠蔽するようになってしまったけれど。
嫌いになってしまえば、期待をしなければ、もうこれ以上傷つくことはないのだから。
鶫は臆病者だった。傷つくことを恐れて、誰と付き合うにも自分から有刺鉄線を張り巡らせてしまうほどに。他人に本心を暴かれることを嫌い、自分から距離を置いて。
けれど、薫子に出会い、鶫は少しだけ代わった。
天真爛漫でいつだって自分の行動に自信を持っている彼女と接することで、鶫自身も変われるような気がした。父の事だって認められる気がした。
「僕は、父が好きだったんだ……いや、今でも好きなんだ」
放心したように、もう一度呟いた。
やっと本心を認めることが出来たのに。だのに鶫はひとりだった。
薫子はもういない。
薫子はもうここには居ない。
そして父も、もう、この世には居ない。
『北野野鳩はもう居ないのよ』
どうしてか、薫子の声がリプレイされた。
鶫は独り、声も出さずに泣いた。久しぶりに泣くのは、少し新鮮でそれからだいぶ、楽になれた気がした。
□■□■□
数日後、薫子から鶫の元へ1通の手紙が届いた。
クラフトの長4定形封筒にクリーム色のシンプルな便箋が三つ折で入っている。
彼女らしい丁重な文字がなんだか懐かしい。鶫は逸る気持ちを抑えてそれを読んだ。
野場改め北野薫子 追伸 支那ちゃんは気は強いけれどとても可愛い女の子だと思います。今度好きになるなら、私みたいのじゃなくて、支那ちゃんみたいな子になさい。……なぁんて、私が指図することじゃないわね。本当の“母親”でもないのに、ね。 |
読み終わってはじめに、まず笑顔が零れた。
「馬鹿だなあ、薫子さん。父さんは貴女のことをちゃんと好きだったに違いないのに。
だって、考えてもご覧。キタノノバトだなんて、変なペンネームの理由を。
北野野鳩――アルファベットにすればNOBATO KITANO。
NOBA TO KITANO
北野へ、野場より。
北野は薫子さんの旧姓。それから野場は父さんの苗字。
少し考えたらわかりそうなものなのに。
結局、不器用だったんだな。鶫は思った。
鶫自身も、父も……それから、薫子も。
今だったら素直に言えるだろうに。自分が父を、薫子をどんなに愛していたのかを。
それが少し、残念だった。
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